イナカモノの性同一性障害

2/11

 今日は初めて授業の予習をせずに学校に行ってしまった。貧血で体が思うように動かせず、何も出来なかったのだ。生理の終わり頃はいつもこんな風になる。私の生理は生殖機能にまで支障を来してしまうほど異常なのは昔書いたと思うが、この時期は普通の人の3倍増し位に自分が嫌になる。身体的な苦痛以上に精神的な苦痛を感じるからだ。
 理由は簡単である。私は精神的に女として育てられて来なかったからだ。
 中島梓(というと知らない人がいるだろうが、栗本薫の別名だ)の本に「コミュニケーション不全症候群」という評論があるが、その中に出てくる「長女コンプレックス」というカテゴリーに私は見事に当てはまる。中島氏も長女として家庭の中で生まれた女性の一人であるが、男尊女卑が未だに公道を罷り通っている日本では女は付属品でしかない。(とこう書くとフェミニストとか言われそうだが、そんなこと言ったらアメリカの女性は皆フェミニスト呼ばわりされるんじゃないだろうか。その辺の感覚が日本の中年以上の大人はあまりに鈍すぎる。)しかし、少子化の傾向の中、子供は多くて3人までが普通になってしまった第2次ベビーブーム以降、子供の中に男の子が産まれない家族も全く珍しくなくなった。そういう時、親は無意識のうちに長女を男がわりに育ててしまうのだ。そしてその長女は自分が男の子の代わりであることを意識的にも無意識的にも刷り込まれて成長していく。
 しかし、最終的には思春期にいたって女は絶対に男にはなれないことを知ってしまう。中島氏によればこの歪んだ感情が長女たちを「やおい」の道に走らせるんだそうだ(因みに私も「やおいもの」は結構読む)。つまり、自分は体は女だが、精神的には男である。しかしこのような葛藤は普通の少女マンガでは絶対に解決を提示してくれない。主人公の女の子は飽くまでも女の心をもった存在でなければいけないからだ。しかし男が男を好きになってしまったらどうだろうか。彼らには「同性愛」という大きな障害(日本では、の話だ)が存在するためにそう簡単に結ばれる訳ではない。男の身代わりとして育てられてしまった女にとって、男を好きになってしまった男の精神的な状況は自分たちの精神的葛藤に似たものだと思える訳なのだ。因みに中島氏は「長女コンプレックス」の代表者として、吉田秋生(漢字ド忘れ。「Banana Fish」の作者)とか森茉莉(森鴎外の長女で作家)を挙げている。

 さて、私の話に移るが、私は妹が一人いる長女だ。そして父親は男尊女卑を絵に描いたような家の出身だ。彼にとって男の子はどうしても欲しかったものの一つであったらしい。私が生まれるときも男であることを信じて疑わなかったという。しかし私は女だった。そして2年後もう一人の子供がやはり女だと判った時、どうやら私を男として育てることに決めたらしい。彼は私を「太郎」と呼び、「お前は体は女だけれど、男に負けないように何でも出来なければいけない」と教え込んだ。正直者の私は父親の期待に応え、わりと何でもできる子として小学校時代を送った。
 また私の精神を培ってきてしまった要素の一つとして、周りに男の存在がいなかった、というのも挙げられるかもしれない。私の時代の子供達はわりと人数が多かったので同じ学年同士で固まって遊ぶことが多かったが、私の近所の同じ学年の子は女の子ばかりだった。いや、それどころか、私のいた小学校では私のいた学年だけ、男女比率がものすごいことになっていたのだ。普通、生まれてくる確率として、男が50.3%で女が49.7%だというのはよく聞くかと思うが、うちの学年は何と総勢126人中女が78人もいたのだ。つまり、一クラスにすると女が26人で男が16人しかいなかった。出席番順に並べると最後の2列は見事に女の列になってしまうのだ。言っておくが、私は私立校なんぞに行ったことはない。れっきとした公立一本出身者だ。そして、小学校では体格も女の子の方が成長が早く、こつこつ型の勉強が得意な女の子がやはり優秀者になる。だから私にとってはどうして頭も良くなく、ただだらしないだけの男の子がただ男であるだけで威張っているのが全く理解できなかった。というか、そういう男はものすごく嫌いだった(というわけで私は日本のオヤジが大嫌いである)。だから「どうしてあんなどうしようもない男共と結婚しなきゃいけないの?そんなんだったら女の子の方がかわいいし、ちゃんと気遣いしてくれるし、頭もいいし。ワタシは大きくなったら女の子と結婚するんだ!」と言っていた時期があった。幼さ故のかわいい話であるが(今はさすがにそうは思わないですよ/苦笑)、どうもその辺りの後遺症が男性に接する際に残っているらしく、男性諸氏にとっては私のとる態度というのはよく言えば気さく、悪く言えば男をバカにして立ててないように映るらしい。
 さて、私の結構まっすぐに育ってきてしまった精神は中学校に入って大きく曲がってしまった。それまであまり差がないように見えた男と女の差がはっきりしてきてしまったのだ。そして周りの人間は「女がそんなに頭が良くてどうする。女ってのはかわいくて愛嬌があって家事が出来ればそれでいいんだ」という私にとっては死ぬほど嫌いな固定概念を押しつけるようになる。何よりもクラスメートの女の子達が小学校までとは全くがらっと性格が変わってしまったのが一番ショックだった。彼女らは「女だろうが言いたいこといってやりたいことやって何が悪い」という考えで生きる私をつまはじきにした。私のような女にとって、最大の敵は男ではなく、「女」という固定概念を後生大事に墨守してるような女なのだ。そう勉強してなくても学年で大体10番以内にいた私の存在は「女は頭がいい必要はない」という彼女らの固定概念を常に脅かすものであったらしい。先述したように、男の子に対して妙に意識せずに友達づきあいが出来た私に「私の好きな○○君に馴れ馴れしくして・・・」という嫉妬も入っていたのかもしれない。とにかく女の子からつまはじきにされて私は女性恐怖症になってしまった。故に女性に対する私の態度は半分バカにしたような男に対する態度とは正反対で非常に丁寧である。お陰で私は男のマブダチは吐いて捨てるほどいるのに(どうやら女臭さを感じさせないところがいいらしい)、未だに男とつきあったことがない。逆に「あああ、アナタが男だったら私、すぐにでもモノにするのに」と女の子から何回言われたことか(言っておくが私はレズビアンではない。根っからの男好きだ・苦笑)。
 何の話をしてたんだ。ああ、そうだ、私のコンプレックスの話か。で、こんなコンプレックスを抱えた私は周りの女の子達が「誰々君のことがとっても好き」というのにもあまりピンと来なかった。というか、そう言う問題を先送りにしていた。例えば中学校時代には「高校に入れば私のことを判ってくれる素敵な男の人が・・・」と自分の好きなことしかやってなかったし、高校に入ったら入ったで自分のことを怖がって近寄ってこない男の子に幻滅して「大学に入ったら絶対に彼氏が出来るんだ!」と信じてやまなかった。
 で、結果はというと、今になっても全然。これは或る意味笑える。お陰でこの年になって結婚もしていないし、子供も産んでもいない。女としての喜びを全く感じることなく、ただ残っているのは毎月の生理痛と、「たぶん身体機能的に子供を産めないかもしれない」という幽かな絶望のみなのだ。何か屈折しすぎているなぁ、自分の生い立ち。でもこれは全部実話。はー。これで自分が本当に男だったらどれだけ精神的に救われただろうかと考えるとただただそんなことしか空想出来ない自分にただただ虚しいのみ。

ホームに戻る