差別問題について

2/21

 先週(つうか今週?)は怒濤のように過ぎていった。水曜日までに抱えたペーパーで週の前半は潰れ、週の後半は日本からKAMOさんがお越しになったためにホスト役で潰れ、部屋も荒れ放題である。掃除をしなければと思いつつ結局今日はカレッジバスケを見てしまった。光陰矢の如く過ぎていく時間の中で一体自分が成長してるんだか退化してるんだかすらも捉えにくくなってしまっている・・・。ううう、何とかしないと。

 そんなことはおいといて、先日は日本における女性差別を全くの個人的視点から書いてみたが、こちらに来て思うのはアメリカ人はどんな人でも差別問題と宗教問題には非常に強い関心と自分なりの考え方をしっかりもっている、ということである。裏返せばこの辺りに関する日本人の知識や視点はお粗末なぐらい卑小なのだ。
 これはたぶん教育システムの差から生じるものであろうが、日本に住む日本人というのは自分が地球という大きな生命体の中のちっぽけな一民族にすぎないという自覚がないような気がしてならない(もちろん、海外に住む日本人、特に日系アメリカ人などはその辺の自覚は非常に持っているのであるが)。「そんなことはない、日本に住む日本人は「日本人は××だ」とか「日本人の○○なところがおかしい」というような言説に敏感ではないか。その証拠に「日本人判じ物」ジャンルの本は飛ぶように売れるではないか」との反論もあるかもしれない。確かに「判じ物」は日本の書籍売り上げの中で非常に重要な一角を占めているが、それは文字の上でのことに過ぎない。日本人はこうこうだ、と語った本を読み、「そうかもしれないなぁ」という感想を抱きつつ、彼ら(と敢えて私は表現しよう)は実はそれを遠い国の出来事のようにしか考えていないのではないだろうか。簡単に言えば、体験知としての民族意識に欠けていると言っていい。彼らは自分達が一民族に過ぎないという知識を文章の上でしか捉えられていないのだ。日本に住む日本人はその圧倒的な数的優位がもたらす驕り高ぶったメンタリティから未だに抜け出せていないのである。
 彼らは差別問題に関する知識や理解が余りに低すぎるのだ。その証拠として日本に女性差別以外の差別はないと思っている若者が何と沢山いるいることか。冗談じゃない。君達は被差別部落や在日韓国・朝鮮人の人に対する差別問題について学んでこなかったのか。
 そうなのだ。彼らは実は学んで来ていないのだ。日本の文部省によってコントロールされた教育の中では飽くまでも被差別部落の人々の運動は「全国水平社」という名前にしか出てこないし、在日韓国・朝鮮人の人々に至っては「渡来人」以上の感覚を持ってはいないのではないか。もしかしたら彼らは関東大震災の時に「朝鮮人がこの震災に乗じて自分たちを殺そうとしている」と集団ヒステリーの状態に陥った日本人が何の罪もない在日の人々を虐殺したという、恥としか言えないような歴史的事実すら知らないのではないだろうか。彼らに欠けているのはそうした人々が今でも自分と一緒の国の一緒のコミュニティに住んでいる、という実際感覚であろう。だから、「差別はいけない」と建前上叫んでいても、実際に結婚を前提としたつきあいをしている自分の恋人が被差別部落出身だとか、在日の人であると判った時、彼らの多くは親のいうなりに恋人を捨てて家族をとってしまうのだ。
 日本人の心性のひとつとして、「出る杭は打たれる」という代表的な言葉がある。それと同時に日本人には「臭いモノにフタ」というメンタリティも持っている。本音と建て前の差との表現も可能かも知れない。彼らは「これからは平等の時代だ」と言っておきながら、「女性はどう考えたって差別されている」と声高に主張する人に対しては「まぁまぁ、そこまで目くじら立てなくても」となだめつつ、ウラでは「あいつは行き過ぎたフェミニストだ」と陰口を叩き、「在日朝鮮人に対する酷い仕打ちは何だ」と抵抗する人々に、形だけの援助を与えて影で「だからチョンはうるさいんだ」と日本人同士でこそこそ言い合う。彼らには自分の中に異なった性質を持った人々の存在と共生していくという機能が欠けているのだ。というか、彼らは自分が差別される対象になりうる、ということすら気づいていないのではないだろうか。

 さて、そういう私はどうだろうか。私はそれなりに自覚を持って差別には断固反対している身である。しかし、それでもやはり差別される人々に対する理解が全く欠けていると痛感した時があった。
 3年前、私はインディアナポリスで語学研修をしていた時のことだ。。ある日会話のクラスで外国人問題が取り上げられたときのことだった。「日本では外国人の数はやはり少ない」と言った私の発言にアジア人とおぼしき女の子が「いや、外国人は非常に多い」と猛然と反対した。彼女は非常に明るく活発で、誰とでもよく話す楽しい女の子だったが、私はあまり彼女とはコミュニケーションがなかった。彼女が在日の人であることを知ったのはそれからしばらく後のことだったが、私は自分の発言を痛烈に反省した。私はあの時純粋に統計学上の数字を念頭において発言したつもりだった。しかし、よく考えてみればそんな統計なんておためごかしにすぎないのではなかったか。日本は二重国籍を認めない国であるから、彼女のような在日の人々は在日としての自覚を犠牲にして日本に帰化してしまうか、それとも在日であることを自認していわれのないひどい差別に断固として立ち向かって行くかのどちらかしかないのだ。そんな彼女の置かれた苛酷な状況を数字という無味乾燥な表面上のものに帰してしまった自分が非常に情けなかった。
 日本は高校までの教育課程を文部省によって非常に厳しくコントロールされている国である。よって高校までの教育では差別問題に対する理解を涵養するのは自ずと限界がある(勿論、関西地域においてはその辺の同和教育は非常に進んでいることは評価できる事項だが、悲しいかな全国規模で見るとその運動はあまりに地域的なものであるに留まってしまっている)。そこで大学においてこのような教育が必要になってくるのであるが、日本は大学に関しても差別を助長している国なのだ。
 例えば日本に住む在日の子供達は朝鮮学校か日本の学校かのどちらかに行くわけであるが、民族としての自覚を持たせようとして親が朝鮮学校に子供を通わせた場合、教育課程に関してほとんど差がないにも関わらず、日本では朝鮮学校は「各種学校」の扱いにしかならないのだ。つまり、朝鮮高級学校に通う生徒達は日本の高校生と同じことを学んでいても「各種学校」扱いなために単位が認められず、日本の大学(特に国立大学)に進学しようとする生徒はわざわざ正規の高級学校の授業の他に日本の高校の授業を通信教育で受けなければ高校の単位として認められない構造になっているのだ。幸いにしてこれは昨年の春に是正され通信教育による単位がなくても高級学校の単位が高校の単位として認められることになったが、それでもまだハードルはある。朝鮮学校の生徒が日本の大学を受験しようとする時には大検が必要なのだ。私は一度大検を受ける子の家庭教師をしたことがあるが、大検そのものの試験内容も合格点も、はっきり言ってちょっと勉強すれば合格できてしまうようなものだった。日本の大学を受けるような優秀な成績を持った朝鮮学校の生徒に対して大検を課すというのはつまり朝鮮学校の教育内容を「程度が低い」とバカにしているとしか考えられないのだ。
 このようなわけで朝鮮人としての自覚をしっかり持った人々が日本の大学に入ってこれる機会は本当に少ない。文部省のコントロールをある程度離れて授業が出来る唯一の場所が大学だというのに、そこですら多くの日本人は差別問題を実感することなく素通り出来てしまうのだ。そういうルートを辿ってきた人達に果たしてどの程度差別問題が理解できるであろうか。
 自分として一番むかつくのはそういった差別にまず一番に反対していかなければならない大学知識人層の中にすら文部省にこびへつらって朝鮮大学出身の学生を各種学校扱いして日本の国立大学の大学院への入学を反対する人間がいることだ。この状況、他の国の大学人が見聞したら十中八九はクレイジーと言うに違いない。このような旧態依然とした男性優位、日本人優位の暗黙の了解が構造として成り立ってしまっている国、それが日本なのだ。

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