The first presentation

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 たった今、生まれて初めての英語でのpresentationを終わらせて帰ってきたところだ。日本語で言う「プレゼン」のことである。日本語でなら日本の大学でも月イチぐらいで発表してはいたものの、英語でである。なかなか自分の言いたいことが頭で英語に変換されなくて苦しんだが、幸運だったのは取り上げた題材が日本のものであったことと、WOGが現在取っている中で一番暖かい雰囲気のゼミでだったこと。クラスメイトも教授もWOGの思いっきり崩れた英語を一生懸命聞いて下さった。そして最後には"It's really interesting!"とか、"Good Presentation!!"とか声をかけてくれた。あああ、今までクラスに出ていてこんなに救われた思いをしたのは初めて・・・(感涙)でも、もうこんな思いをすることなんてないんだろうなあ・・・(泣)。
 というのも、これ以外のクラスがとってもWOGには冷たくて不可点なんぞつけてくれてしまうクラスもあるからなのである。因みにWOGが現在取っているのは院の授業がこれ一つと、あとは学部生に混じっての授業二つである。WOGのような年寄りにとっては学部生のon goingなベシャリにはついていけない。しかも彼等は日本人だろーがサウジアラビア人だろーが容赦がない。ちょっと発音が悪いと無視。聞き取れなくても無視して英語ですぐに反応が返ってくる別の人とベシャリをはじめる。おいおいキミタチ、もうちょっと他人に対する思いやりとか、そういうのは教えてもらわなかったのかね(泣)。
 まぁ、良くも悪くもクラスっていうのは教授の持つ雰囲気が見事に反映されてしまうことから来ているのかもなぁ。因みにWOGが気に入っているこのクラスの教授は教授もやるけど本業は詩人。しかもゲイである。とても人当たりのよい雰囲気で、みんなを和ませるのがうまいため、すごくクラスメイト一人一人の雰囲気がとても暖かい。みんなWOGを支えてくれる感じである。他のクラスの「その辺の障害物」扱いに比べれば雲泥の差である。こういういいクラスが、専攻以外だからってもう取れないかと思うとめちゃめちゃ悲しい・・・(泣)。(このクラスはLiberal Studies...日本語で言うと「総合文化学科」かな?という学科のクラス。英文科のクラスでもあります。)

 愚痴りと感想はおいておいて、いつもレポートとか批判的読書をする際に思うのが「自分は絶対に学者に向いてない」ということ。日本で大学院ドクターコースまで行っておいて、あまつさえアメリカまで留学してる奴が言うセリフじゃねぇとお思いでしょう。しかし、これは自分が大学に入学したときから感じている実感。「じゃあなんで大学院なんかに行ったんだ」と詰め寄る向きもあるかもしれない。実のところWOGがここにいるのは単に行く先がなかったからなのだ。一応コレでも大学時には就職活動したんだよ、全部見事に蹴られたけど(泣)。そうです、WOGは悪名高い「モラトリアムずるずるひきずって大学院生してるお子さま」なのだ。こんな奴が勉強もせずに遊び歩いてる一方で、一般日本国民の皆様は不景気のこの折、残業に追われて苦しんでいらっしゃる。殺されても文句は言えませんな。
 そもそも、WOGの知性というのは(痴性かもしれんが)学者のように体系だっていない。ものすごく「ひらめき」に左右されるものなのだ。「ひらめく」ときは結構あるんだけれどもそれが続かない。学者的知性というのは長年の知性と思考の積み重ねによって積み上げられ、自ら形をなしていくものなのですが、WOGの場合、「ひらめい」たり覚えたりしても何回も繰り返し使ったり、自分で何らかの形にしておかないとすぐに忘れてしまう。
 注意力も散漫。日本語で本を読むときなど、本を読みながら全然別のことを思い出して考え出したりすると平気で1ページぐらいは字面だけ読んで頭の中を素通りして抜けていってしまう。最近は辞書を引くのがめんどくさくなったので英語の文献すら日本語的に読むようになり、素通り率が激増。こんなんではマトモな論文は書けませんよねぇ(^^;) しかしながら日本で書いた修士論文がまさにそれ。フツーは夏休みぐらいから校正と中間発表を何回も重ねて締め切りに至るのに、WOGなんざ、修士2年の時は4月の半ばから資料を読み始めて、10月になってもずっと読んでて11月が終わる頃になってもまだ書いてなくて、そんでもって「よぉし、書くかぁ!!」って始めたのが12月の始め。因みに締め切りは1/16。殆ど1ヶ月で書いた計算である。まぁ、その代わりその1ヶ月間は寝るときと食べるときと便所風呂以外は殆どPCの前でだだだだだだーっと字を打ち続ける生活だったが。
 これもやっぱり「ひらめき」のお陰。今思うに、もしあの時に「ひらめか」なかったらWOGはどうしていたんだろうなんて思うのです。

 しかし大体、「ひらめき」というのは学者的知性ではなくて、芸術家的知性に属するものなんですよね。WOGは自分でも「ああ、オレは芸術家になっとけばよかった」なんてよく思いますが、このトシになってそうもはいきません(苦笑)。せめて、1800年ぐらい前の日本に生きてたらなぁ。そのころだったら卑弥呼までとは言わないけれど壱与ぐらいの怪しい巫女ぐらいにはなれてたぞ(笑)。
 なんで芸術家的知性から巫女に話が移るのかと言えば、元々芸術というのは宗教の一部に属していたものだからです。音楽だろうが、絵画だろうが、詩だろうが、元々は神々との対話のために人間に編み出した手段。それを操るにはどちらかといえば訓練によるものというより天性による「ひらめき」がないとダメ。どんなに頑張ってもたぶん普通の人がピカソみたいな絵を描けないのと同様、芸術的知性は訓練によって修得できるもんでもないのです。昔、親しい知人に自分の生年月日と生まれた時刻、そして生まれた場所まで教えて西洋占星術で自分の存在を占ってもらったことがありますが、そこで「あなたの知性は長続きするものではなく、電気的、トリックスター的なものです」と言われたことがあって、なるほどと頷いてしまった。あと、「あなたの頻度を測ります」というサイトでも「何千万人に一人のカリスマ的存在」と出てしまって、それを古くからの友人に言ったら納得されてしまった覚えもあります。
 だからって別に自分は宗教の教祖とかになれるわけでもありません。以前、日本の大学にいたときに「私はもし大昔に生まれてたら巫女になってたと思いますよ」と先輩に言ったら「ああ、そしたらキミは”見える”んだね?」と言われてしまいました。いや、WOGが言ったのはそう言う意味ではなく・・・(^^;;;)実のところ、WOGには全く霊感がないので(昔霊感の強い子に「あなたは守護霊がめちゃくちゃ強いから周りに霊が寄ってこないのよ」と言われたことがある)そういう意味では巫女失格なんですが、ときどき突飛なことを「ひらめい」て、それが自分では自覚できてないながらも実はかなり重い意味を持っていたりすることがあるのです。結局のところ、邪馬台国の卑弥呼が行った古代神政統治というのも、彼女の霊感もさることながら、彼女の「電気的知性」による預言が時折時勢の正鵠を得たものだったから成功したとも言えるかも知れません(いや、成功したかどうかは知りません。大体邪馬台国自体がどこにあるものか判らないし)。
 ともかくも、WOGはたぶん平安時代だろうが鎌倉時代だろうが、たぶん尼僧にでもなってたでしょう。中途半端に各人に学問その他の機会が与えられるような現代社会に育つと「ひらめき」のある人間は現在のWOGのような「変人」にしかならないんじゃないでしょうか。そう言う意味で近代以降の社会は「ひらめき」に対しては冷たい。(まぁ、当たり前ですが。「ひらめき」は計算できませんからね。いつやってくるか判らないものですから。)
・・・おや?愚痴はおいといてなんて話を続けたのに、結局愚痴で終わってしまった。はっはっは、年寄りだから許してくれぃ(笑)。

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