うつくしきものの邦(クニのラフ・スケッチ

7/27

 何だかんだといって滞日中は更新しなかった。このへっぽこ日記を楽しみにしておられた皆さんに深くお詫び申し上げたい。更新しなかったのはひとえに買い物とオフ会が忙しく、また、落ち着いてPCをつなげる環境がなかったからである。
 23日間の日本生活は瞬く間に過ぎていったような気がする。その中で私は改めて日本の良い点、嫌な点を再確認できたと思う。それをつれづれなるままに挙げていってみよう。

ヤマトウスサマノカミ

 まず日本に到着して何で日本を感じたかと言えば、不浄な話で申し訳ないがトイレに入ったときの便器だった。和式便器を見てつくづく「ああここは本当に日本なんだ」と実感できてしまったのだ。ついでに言えば流れる音の出るエチケットマシーンが設置されていることでも実感した。よく思うのだが日本人の女性は必要以上に潔癖過ぎるような気がしてならない。自分の生きている証である放尿・排便でさえ音を消したがる。WOGも日本に住んでいるときはなるべく音が聞こえないように気を使っていたのだが、アメリカに来てからそういった細かいこだわりを忘れてしまったような気がする。このクニ(国というほど精神的に大きくはない)はやっぱり神様よりも他人の思惑をいちいち心配する場所なんだなあと思い知らされる。

うつくしきもの

 日本に着いてびっくりしたもの。それは私自身が心なしかサイズアップしたように錯覚できるほど全てのものが小さいということだった。道幅が、車の大きさが、家々が、牛乳パックが、とにかく全てが小さい。こんな圧縮されてきた空間で私は何十年も生きてきたのかと呆れるぐらいなのだ。そしてその一つ一つがこれまた呆れるぐらいによく出来ている。何かにつけ大味なアメリカとは正反対のその姿に何となく「かわいい」という実感が出てくる。
 街路を歩く人々も小柄で華奢で、こんなに頼りなさげなのに世界一長生きしているなんて信じられないぐらいだ。すれ違う女性の姿もほっそりとなよやかで誠に美しい。胸と尻が異様にでかく突き出ているアメリカ人とは一線を画した凹凸の少ない体は着物を着せるとぴったりと来る。どの女性も、そう、それこそ中年のおばさんでさえも出かけるときはこぎれいに支度している。ノーメイクでずかずか歩き回っているアメリカのたくましいおばさんとはやはり何かが違う気がする。男の人もほっそりしていて華奢で、でもそこからちらちらと覗かせる「オレは男だ」というプライドの強さが何ともかわいらしい。時にはムッと来るが。
 清少納言は「枕草子」の中で「うつくしきもの」という一段を設けて身の回りのかわいらしいものをあれこれ取り上げているが、日本というクニはそれ自体「うつくしきもの」なのではないのか。異大陸から来た人にとっては全てが可愛らしく、きちんとコンパクトに整えられたミニチュアの世界にいるような錯覚すら覚えてしまうのだ。日本の風物を「キュート」と愛する人々が大勢いる理由が何となく判ったような気がした。

神のいないクニ

 着いて早々、私は父親と「日本に神はいるかどうか」について2時間ぐらい議論してしまった。宗教学を少しだけかじったことのある私としては「日本人に神的な概念はないわけではないが、単にキリスト教やイスラム教といった強烈な神の存在がないだけ」という持論なのだが、父親は「そもそも今の日本には神的な概念は存在しない」という立場だった。それぞれの考え方を新新宗教に身を捧げてしまう人に対する見方で説明すると私の場合が「心の深層にあった神的な概念が新新宗教によって呼び覚まされてはまってしまった」となるのに対して父親は「そもそも神的なものがなかったために免疫がなくてはまってしまった」と説明するのだ。因みに日本人が誰でもやる初詣でに関しても私が「日本人の宗教心の現れ」と解釈するのに対して父親は「みんながやってるから行ってるだけ」となってしまう。
 どちらかというと日本の人達の多くの考え方は父のものに近いのだと思う。このことに関しては4年前ぐらいに妹とも言い合いになったことがある。一応はっきりと自分が仏教徒であると言い張っている私などからすればそういった曖昧な、というかナイーブな大方の日本人の態度というのが信じられないのだ。こういう人達が強烈に宗教ナイズされた地域(例えばアメリカ)等に来たら一体どういうことになるのだろうか、と考えたところではたと気付いた。
 日本は確固たる神がいないことで逆に各世界に浸透していける力を持っているのではないか。
 例えば芸術の世界。クラシック音楽などはキリスト教色がもっとも色濃く残されている芸術ジャンルであるが、神を持たない日本人はそういった所にも問題なく参加し、第一人者となることが出来る。もし敬虔なイスラム教徒がクラシック音楽を、それもミサ系をやることになったらそれこそ宗教的な問題も起こりかねない。いやそれ以前にそういった人達はクラシック音楽とは無縁の世界にいるはずだ。多くの日本人芸術家が各世界に渡ってうまくやっているのはこうした宗教的柔軟性の賜物なのではないだろうか。
 確かに日本人は島国根性の国で、ひっきりなしに大国のご機嫌伺いをしなければいけないところがあるが、多くの人はこの宗教的柔軟性を悪いとは思っておらず、逆に自分たちが世界に進出できる武器と思っているのではないか。宗教的制約がないから、日本人は各世界に飛び散ってその世界に溶け込むことが出来る。キリスト教徒でもない日本人がバッハの「マタイ受難曲」を音楽ホールで演奏し、鑑賞する。このことは彼等にとって何の不都合もないのだ。
 しかしながらその背後には日本人にとって宗教性を認めることが後ろ暗いものとして潜んでいることをも見逃してはならないと思う。それは第二次大戦の挙国一致体制の中での国家神道に対する忌避である。日本人として日本人とは何かということを考えると結局菊の御紋のタブーに行き着いてしまうのと一緒なのだ。日本人は宗教的に去勢されてしまったのかもしれない。

自分勝手と個人主義

 最近は自分勝手と個人主義を取り違えている人が多い。というか、そもそも日本人は個人主義を理解していない。何でも自分の思う通りにやれば個人主義になると思っているようなのは大きな間違いだ。個人主義とは、自分が個々で成り立っている以上、必要な義務を果たしてこそ初めて獲得できるものだ、ということを誰も教えない。
 アメリカでは困っている人がいたら「手伝おう」と張り切って手を貸してくれる人が多い。背が低くて力もそう大してない私が荷物を揚げるのに困っていたら大抵近くの男の人が駆け寄ってきて助けてくれるし、重いドアはちゃんと開けてくれる。そんな私も体の不自由な方やお年寄りがドアを開けようとしているときは自然にドアを押さえて道をつくってあげることが出来る。
 日本にはこれがない。松葉杖をついたご老人がドアの前で難儀していてもそれは「付き添いのものの監督不行届」で通りかかった人には一切咎がない。いくら公共機関がハード的にバリアフリーな施設を目指していても、人々の心にバリアが沢山あるようではいつまでたっても改善はされないのではないか。
 日本はムラ社会だとはよく言われるが、最近はムラですらない。各家単位でしかものを考えられない人が多い。アメリカではコミュニティという言い方をよくするが、日本にはこういう単位がなく、福祉問題や教育問題は結局家の問題とならざるを得ない。そしてそんな大きな問題を抱えるほど家一戸の許容量は大きくない。結局おざなりにされてしまうのが関の山だ。
 大阪に行く途中の電車で杖をついた方が乗り込んできた。私の席からはかなり遠くにいたが、そこで問題が起こったのだ。足の不自由な人にとっては足下のおぼつかない電車ほど怖い乗り物はない筈なのに、付き添いの人が「席を譲っていただけませんか?」と言っているのに、先に乗っていた若い高校生は席を譲ろうとしなかったのだ。足の不自由な方は仕方なく立ったまま呆然としていたがそれを見かねた中年の女性が席を譲った。
 その後車掌が通りかかったとき、付き添いの人はその高校生のことを注意するように促した。しかしその車掌の注意にもその高校生はだまりこくったまま一言も答えなかった。
 何故何も言わないのか。足の不自由な人に席を譲れないほど自分が何かで疲れているのならそう言えばいいのに。疲れていたって足の不自由な方に比べれば電車の中で立っていることなど若い高校生にとってはそれほどの苦痛になるだろうか。もし黙っていることで苦痛になるのだったら、席を譲った人達と喋って気を紛らわせればよいのだ。譲って貰った人であれば話し相手にだってなってくれるだろうに。
 また別の高校生は自分の荷物を客席に置いていたのを「沢山人が乗って来るんだから少しでも多くの人を乗せてあげるためにどけて下さい」と車掌に注意したにも関わらず決してどけようとしなかった。
 彼等のやっていることは単に自分本位なだけだ。そんな態度で親や先生がうるさく注意したときには「個人主義」を持ち出して減らず口をたたくなど、ちゃんちゃらおかしい。個人主義とは自分の生き方や考え方をその時その時でしっかりと定めた人間が、なおかつ社会の中の一構成員としての存在を充分意識して行動したときに初めて行使できるものであり、周囲に対するちょっとした心遣いが出来ない奴が名乗るものでは決してない。
 しかし彼等はただ黙りこくって何も言わない。不満があるならはっきり言ってカタをつけるということを40人もの生徒がただひたすら無言で机に縛り付けられ、親も食事以外のことでは干渉しないような環境では学んでこなかったのだ。

アメリカ人になりたい?

 日本に帰ってびっくりしたのは女の子の化粧がやたら濃くなっていることだった。普通の女の子や勤務中の女性でもあれだけアイシャドウを銀銀に塗るのはどうしたものか。それよりもガングロの女の子が目の周りと唇だけをパンダのように銀に塗るアレは何とかして欲しかった。
 聞くところに寄ると彼女らは「アメリカの黒人になりたい」といって黒く焼き、ああいう化粧をするのだそうな。
 冗談じゃない。アメリカの黒人になりたければ一度アメリカに来てみろ。お前らの思っているようなちゃらちゃらした黒人がアメリカに何人いると思ってるんだ。それにどれだけお前らが努力しようがお前らは絶対にアメリカの黒人にはなれない。彼等が蓄積してきた歴史を知れば知るほど、自分たちは日本に住む日本語を話す日本人でしかないことがよーく判るに違いない。勘違いするな。
 あと、街行く人々の大半が髪を茶色に脱色している人が多かった。これだけのパーセンテージを占めるようになると既に「茶髪」というのは死語ですな。因みに私は自分の髪が黒くて癖がないことを誇りに思っているので白髪が増えるまでは決して髪の毛をいじろうとは思わない。こっちにいる黒人のお姉さん達は毎朝30分以上かけて縮れ毛をヘアアイロンできっちりストレートにセットしてから行くのを見ていると、自分の髪の毛がまるで賜り物のように思えてくるからだ。そんな髪をいじめてまで脱色しようなんて勿体ないこと、貧乏性の私には出来ない。

 ここまで書いて、改めて自分は何て日本から逃れられない運命なんだろうと気付いてしまった。これだけ悪口がずけずけ言えるのも、ひとえに自分が日本人であるからなのだろう。普通アメリカで少しでも暮らした日本人が日本に戻ると「ああ、日本てやっぱりいいなあ」と実感するらしいが、WOGの場合、どうしても心からはそういう気になれない。勿論、首にまでお湯につかってお風呂に入れるのは極楽を実感したのだが・・・。

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