ヲタクの勝利

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 やっと今週の授業がすべて終わって束の間の自由時間。今はMTVアワードを聞きジンファンデルを飲みながらコレを書いている。全く歴史なんて最高に課題が多い専攻なんて選択するんじゃなかった(泣)。アメリカ人でも読み切れなくて困っているような分量を日本人がどうできるというのだ・・・。

 さてと、今日はインターネットのことについてちょっと書いてみたい。
 インターネットが普及し、気軽に電子メイルやホームページが作成、閲覧出来るようになった事による一番のメリットとは何か。模範的解答として「個人情報の発信が可能になった」ということが挙げられるだろう。個人情報が発信できるようになった、ということはとりもかくさず、情報を沢山持っている人ほどインターネットの恩恵を被るようになったことを意味する。
 オタクという部類に該当する人間達は、この点でインターネット時代において最も雄弁に成り得たのではないだろうか。
 これはオタクとは何かという性質的な定義とも関わってくるかも知れないが、WOG的にはオタクとは「既存に規定された知的体系とは離れたところで、大衆文化の一局面に関して非常なる関心と精力とを持って追求している人々」を指すと定義する。そうやって眺めてみると彼等の存在形態とインターネットという表現形態は符号しうるところが多い。
 具体的に言ってオタクというのは「毎回のコミケ(コミックマーケット)に足繁く通う人々」を意味するとしよう。インターネットが普及する前、彼等の情報交換(交歓)の場は主にコミケという狭い、しかも限られた時間枠の中でしかなかった。勿論、コミケで知り合った人々がその後お互いの住所や電話番号を教えあい、電話やファックスで情報をやりとりすることは日常的に行われていたが。
 彼等は自分がオタクであるということを公にすることができなかった。原因の一端として「宮崎勤事件」が挙げられるだろう。幼女を次々に誘拐し、殺害に及んだ彼はコミケの常連であり、代表的なオタクの交換の場であったアニメ雑誌を定期購読し、自宅には数千本に及ぶビデオテープが氾濫していた。彼が逮捕された後には彼のそういった性向がやり玉にあげられ、事件をどうしてもどこかに決着させたい「一般人」は彼等にとって未知のブラックボックスであった「コミケ」を人身御供に仕立て上げた。
 結果、彼とは何も関係のなかった日本に数十万は棲息するであろうオタク達は自分がオタクである事を世間的には隠して生きなければいけなくなった。もし自分がオタクであるとカミングアウトしてしまえば、彼等に待っているのは「一般人」の冷たい視線(これは日本においては何よりも耐え難い苦痛である)と「幼女変態趣味の仲間」という侮蔑だけだからだ。自宅に届く遠方からの見知らぬ人の手紙やファックスを見て親から「これ、誰?」と聞かれても、彼等は沈黙するより他方法がなかった。
 ところがインターネットが普及して以降、この状況が一変した。電子メイルやインターネットを通じ、彼等はコミケという交換場所を経ずしても自分と同じ嗜好を持つ人とコンタクトを取ることが可能になった。コミケなどの時にしか連絡が行き届かなかった「お茶会」も今や「オフ会」という正統(?)な理由で堂々と開催することができるし、また、知り合った仲間についても「インターネットで知り合った」と胸を張って宣言できる。しかもそれにかかる料金は市内通話とプロバイダ料金のみ。それまでにかかっていた電話代やファックス代を考えると雲泥の差だ。インターネットのことを「自分には手に負えないけど何かとても役立つらしい立派なモノ」と刷り込みされているジジババ達は「インターネット」という水戸黄門の印籠の前に逆に沈黙せざるを得なくなってしまったのだ。
 これはオタクとインターネットの関係を外側から見たものである。
 双方の持つ性質(内側)から見ても、これらは似たような特徴を持っている。
 オタクの世界ではある一つのトピックについてどれだけの知識をもっているか、もしくはそれを別のものに変換出来るツールをどれだけ持っているかが問題となってくる(コミケで活躍する人々のような「画才」もその変換ツールの一つに入る)。また、それはあまり冗長であってはならず、どこかで共感してくれる人がいるものであることが多い(個人的にはここがオタク的知識の限界だと思っている。オタク的知識はそれを支えている人々の知的体系がインテリの知的体系ではなく、あくまで大衆の知的水準に依拠したものであるがゆえに、コンパクトで分かりやすいモノであらざるを得ないのだ)。インターネットもその普及と共に大衆性を獲得し、今やあらゆる情報がここに集まってくるまでになった。サーチエンジンでどんな項目を検索しても大抵ヒットするサイトが存在する。
 「コミケ」時代、売れるか売れないかもよく判らない数十部の自分の同人誌のために何万円ものお金を印刷所につぎ込んでいた人々も、インターネットの到来で自分がhtmlファイルの作り方さえ覚えれば、昔のようなお金をつぎ込まなくたって来てくれる人はちゃんと来てくれ、自分の流す情報を楽しんでいってくれるようになった。しかも「掲示板」の存在で自分の所持する情報に対する感想をすぐに聞くことができ、さらには「同好の士」も、自宅に居ながらにして見つけられるのだ。これを「オタクの勝利」と言わずして何と言おうか。こう考えると、オタクは「マルチメディア」のはしりではなかったか、という議論も可能だろう。

 勿論、インターネットはいいことばかり持っている訳ではない。個人情報が可能になった分、「権威付け」された既存の知的体系はインターネットの世界では相対的地盤沈下を起こさざるを得ない。平たく言えば全ての情報が並列で同じまな板の上に乗っている状態になってしまった、ということだ。これは自己の中である程度判断の枠組みが形成された大人にとっては「既存」とは何か、「権威」とは何かということを改めて問う格好の材料となるに違いない。
 インターネットのこの特徴が最もマイナスに働くのは教育の現場においてであろう。確かに人間は生まれながらにして平等かも知れない。しかしだからといって大人が赤ん坊にタメ口で話しかけても会話は絶対に成立しない。彼等は持つべき判断の枠組みを未だ構築していないからだ。理想に向かって導かれるべきである彼等にとっては「並列化された情報」はあまりに煩雑であり、かえって彼等を当惑させるだけだろう。最近の、一つの家の回線の中で子供が持つアカウントのアクセスに制限を加えようとする動きはこれに対応したものだろう。15歳以下の子供がいないような家庭だとこれはなかなかわかりにくいだろうが、家族という組織は、親と子という関係に限って見ても決して平等ではない。言ってみれば「平等を旗頭に掲げた民主社会の中(底?)に存在する不平等」といったところだろうか。

 閑話休題。こういう「情報並列化」社会の中で生き残るには「情報の賢い取捨選択」が必要不可欠であろうが、これがなかなか思うように取捨選択できないところがオタクの性。ついついサーチエンジンのボックスに思いついた言葉を入れてヒットしたHPを覗いている毎日にある意味自分の業を感じてしまったりもする。ともあれ、インターネットというのは両刃の刃。やりすぎには気を付けよう(自戒)。

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