2004年08月02日(月)  童話の継母、現代の継父
 最近のニュースでよく、継父による子供の虐待事件が報道されている。

 勿論、離婚率が上昇していく中、多くの子供が必然的に継母もしくは継父を持たざるを得ない状況も出てきているために、一部の極端な例を取り上げて「離婚はダメだ」というつもりは全くない。私の直接の知り合いを含め、両親の離婚そして再婚を経て継母や継父ができても、新しい家族とうまくやっている子供は虐待を受けている子供達の何十倍も何百倍もいることだろう。

 それにもかかわらず「継父の子供虐待」というトピックを私が取り上げるのは、少し気になったことがあるからである。

 再婚を経てなくても、多くの日本人は子供の時分に「継母」という言葉を必ず聞いて育つ。なぜならば、童話や御伽噺の世界には必ずと言っていいほど継母が登場し、主人公である若い子供(これまた娘であることが圧倒的に多い)に何かと虐待を加えるからである。

 例えばシンデレラ。父親はいるが、家庭内は早逝した母親に代わり継母が実権を握っている。そして父親と前の母親の娘であるシンデレラをいじめる。

 例えば白雪姫。父王はいるが、主に関係性で描かれるのは前の母親の娘である白雪姫と、新しく嫁いで来た王妃(実は魔女)で、王妃は何とか白雪姫を殺そう(=最高の虐待を加えよう)とあの手この手を使う。

 また、日本の御伽草子にしても継母による子いじめは「継子物」と呼ばれ、一ジャンルを形成するほどである。

 その他にもグリム童話の中で継母が出てくる頻度は継父が出てくる頻度の実に5倍以上になっている。それが「意地悪なおばあさん」と「意地悪なおじいさん」の比率ともなると、10倍以上の差で女が罪人とされている物語が多いという。

 これには勿論歴史的な背景もあろう。というのも、こうした童話や寓話が書かれた頃の17〜18世紀のヨーロッパでは寡婦の再婚率が非常に低く、更に夫が死亡した後は妻が主人代わりをして子供を育てるというケースが多かったことが挙げられるし、また日本の御伽草子が書かれた年代を考えても、鎌倉〜室町といえば、上流階級の場合は夫に先立たれた後の妻は出家をする(=結婚しない)ことが多かったこともあるだろう。

 だからといって、勿論継父の物語もなかったわけではない。例えば、先述したシンデレラの物語にしてもロッシーニによるオペラでは継母が継父に替えられているし、御伽草子にしても継父に性的虐待を受ける娘の話が出てくる。

 ただ、その数の差はやはり多くの人の記憶に問うてみれば明らかであろう。多くの人はすぐに継母の物語はいくつも思い出せるが、継父の物語をすぐに列挙できる人はよほど寓話に造詣が深い人かもしれない。

 先ほど、継母の物語が多い理由として歴史的な背景が挙げたが、これに派生して、もう一つ理由が挙げられないだろうか。

 つまり、継母の物語が作られた時代というのは階級がはっきりしている社会で、よほどのことがない限り、階級内での婚姻関係が続けられ、更に婚姻とは「その家を守っていくことだった」と言えないだろうか。えてして階級道徳というのは、女性の行動の抑制に最も強く働くと考えてよかろうから、「一度嫁に行ったらその共同体を守る」という道徳があって、それを守るために再婚はしないだとか、夫に先立たれたら出家するだとかいう行動に出たのかもしれない。

 その時代にしても恋愛というものは存在していたであろうが(平安時代の女流日記などにはこのトピックが頻繁に出てくる)、それにしたって同じ階級内であることに強く限定されており、「身分違いの恋」をした者は特権を剥奪されることも事実としてあったぐらいだ。(だから、シンデレラというのは全くみすぼらしく質素な召使(=労働者階級)のような生活を継母によって強いられてきたわけで、その階級の生活様式や思考方法が身についてしまった状態でいきなり王子様(=特権階級)に見出されてしまったわけで、ということは、必ず結婚後に適応障害を起こしたり、そうでなくても王族貴族が「当たり前」と思っていることが「当たり前」でないために強い批判を受けたりしているはずなのである。シンデレラが「王子様との結婚」で終わっているのは、その後のシンデレラの人生の悲惨さを表に出さないようにして、無理矢理「ハッピーエンド」にしている欺瞞を感じる)

 いずれにせよ、ヨーロッパの場合、家という共同体の存続が第一であり、成人女性の存在というものがその共同体のシンボルだったが故に、成人女性が不在の場合は継母という形で新たな成人女性を迎え、夫に先立たれても成人女性は新たな家に移ることなく、それまでの家の中で存続しつづけた。また日本の場合も、「家」という形式を守るが故に既婚女性は再婚をしなかった。

 このような時代に作られた話を聞いて育った現代は、自由恋愛が(一応体裁上は)叫ばれている時代である。「家のしきたり」云々などというものはよっぽどの旧家でなければ聞かれなくなったし、それ以前に少数の上流階級よりも、圧倒的に中流階級が生活のスタンダードを構成するようになってきた。

 「恋愛結婚」とはよく考えたもので、そういう自由恋愛の時代に何とか結婚というものを制度として存続させようとしている試みであろうが、恋愛という非常に不確定な感情で結ばれた共同体は、そのぶん崩れやすさも倍増する。「家」は、構成員の流動性が増すに連れてそれほどの財産的規範的な価値を持つことも少なくなっている。例えば4世代が同居していれば恐らく一番の年寄りがその家のしきたりを構成員に伝授していくのであろうが、核家族化が極端に進んでしまった現在、そういった多世代同居と言う形は少なくなっている。(その辺りは一世帯辺りの構成人数の変化を見れば一目瞭然だろう)

 つまり、「結婚」という状態において、「家の規範」ではなく「親子や夫婦の愛情」の占める地位が相対的に上昇したと言えないだろうか。ここにおいて、非常に脆弱な「愛情」が破綻してしまったケースが出現した場合、守るものは既に「家」ではなく「愛情」なのだから、母親もそれまでの「家庭」を子供を連れて出て、自分の恋人=継父=新しい愛情の対象のもとに赴くようになる。こうして「継母」の存在以上に「継父」の存在が「目立つ存在」となってきたのではないだろうか。

 これにはもう一つの理由がある。つまり、両親が離婚した場合、子供はかなりの確率で母親の方に引き取られることが多い、ということである。たとえ母親の方にも少しばかり落ち度があったとしても父親は(いくら子供にとって完璧な父親であったとしても)子供を手放さなければならないケースが多い。このことを考えると、「母性神話」が未だに社会規範の一部となっていると考えられないだろうか。(日本のデパートの女性用化粧室の個室には子供用の座席が「当たり前のように」設置されているが、果たしてどれだけの男性用化粧室に子供用の座席もしくはオムツ替え用のシートが「当たり前のように」設置されているだろうか?)こうした背景もあって、現在は継父が続々と誕生している。そして、それにつれて、継父による子供への虐待も必然的に増加していく。故に虐待事件だけを見て継父や再婚の問題を語るのではなく、そういう問題が表面化した背景や社会的な問題(特に根強く残る「母性神話」や必要以上に「血のつながり」ばかりを強調してしまう傾向)に目を向けるべきではないだろうか。

 継母が出てくる童話はその童話が作られた時代の歴史性と社会構造を表していた。そして継父が出てくるニュースは、現代という時代の歴史性と社会構造を表しているような気がしてならない。


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